映画「AKIRA」のデジタルリマスター版が上映されているということで行ってきた。
オリジナルの公開は1988年。当時漫画の方は読んでいたし、映画化についても芸能山城組の音楽を含めて話題になっていたので観たいと思いながら機会を逃していた。映画公開時はぼくは大学1年。ロードショー映画よりもミニシアター系(当時はそのような呼び名はなかったけれど)のフランス映画の方に興味が移っていたせいもあるかもしれない。それから32年。その年数に書いている自分が愕然とするが、とにかく、ようやく観ることが出来た。
まずはじめに、「AKIRA」は今見ると予言的に思えるところがある。
舞台は2019年のネオ東京。2020年東京オリンピックの看板、その隣に書かれた「中止だ中止」の落書き。加えて、映画版では出てこなかったが漫画版には「WHO、感染症対策を非難」との新聞記事の見出しがある。
実際に、オリンピックが(今のところ)延期となり、新型コロナが世界的に猛威をふるっている2020年から見ると、まるで現在の状況を言い当てているように見える。しかし、実際にはそこに描かれているのは、過去に実際にあった出来事のようだ。
1964年の東京オリンピックは、直前まで国民が無関心だったらしい。NHKの世論調査では「オリンピックより他のことに費用をかけた方が良い」という意見が半数以上を占めていたとか。だからオリンピックの看板の横に「中止だ中止」は当時既に日本国民が経験、あるいはそうでなくとも容易に想像されていたイメージだろう。そして、もう一つの「WHO、感染症対策を非難」も同様だ。漫画AKIRAの連載は1982年〜90年という昭和の終わりの時代だ。丁度その頃、世界を脅かした感染症があったではいか。そう、エイズ(HIV感染症)だ。
ということで予言的に見えるところにはあまり特別視せずに先に進む。
子どもの姿で顔だけは老人という超能力者マサル、タカシ、キヨコの3人が登場する。
物語のクライマックスで金田が、鉄雄とアキラの大きな光に飲み込まれる。タカシは、光の中に入るともう戻ってこられないことを知りながら、金田のことを「あの人は関係ないから」と捨て身で助けにいく。それを見たマサルとキヨコは自分たちも加われば助けられるかもしれないと後を追う。その時キヨコが言う。「3人ならね」
3というのは重要性をおびた数字だ。すぐに連想されるのは三位一体だろうか。ほかにも三種の神器や三本の矢とか、いろいろある。そうだ、コロナ禍の現在においては何といっても「三密」か。
しかしぼくはここで、それらではなく「真善美」というちょっと古めかしい概念を連想した。
AKIRAには真善美の相克が描かれている。
「真」は科学だ。「ドクター」と呼ばれる登場人物が、科学の発展のためにと鉄雄の能力開発実験を推進する。
その研究機関は軍の管理下にあり、軍のトップである「大佐」は能力をコントロールできなくなり暴走する可能性を心配する。「ドクター」は、データ分析の結果からは問題ないはずだと言って大佐を説得する。
「善」はその「大佐」だ。戦争の機関である軍のトップに善が宿っているという皮肉。
腐敗した政治に足を引っ張られ失脚の危機に直面するも、その善性をもって部下たちを説得する。ネオ東京を守るためにクーデターを起こし、危険な能力を持ってしまった鉄雄に立ち向かう。
本来、真善美は相克するものとは限らないけれど、ここではまず、「真=科学」 と「善=人々を守ること」 が衝突する。
結果「ドクター」は鉄雄の甚大なパワーの影響で命を落とす。まるで科学性の限界を見るようだ。原子力を連想する人も多いと思う。
軍、そしてクーデターという、善性にはほど遠そうな立場にある「大佐」に善が宿るのに対し、科学への貢献という真なるものをめざす「ドクター」には科学者としての強い「欲」が見えた。
その欲が純粋な科学的な欲求なのか、科学者の自我を満たすための欲なのか。その線引きは難しい。
では「美」はどこにあったか。
ひとつは鉄雄と金田の関係。小さな頃から、弱くいじめられがちな鉄雄とそれを守ってきた金田。しかし鉄雄は本当は守られていること、助けられていることがくやしくて、金田に勝ちたくてしょうがなかった。そんな鉄雄が大きな力を得て金田と対決する。鉄雄はこれまでの屈折した感情を金田にぶつけ、殺し合おうとするが、自分自身でコントロールしきれない巨大な力AKIRAに取り込まれて行く時、最後にまた金田に助けを求める。そして金田は助けようとする。たったいま殺し合っていたというのに。
もうひとつはマサル、タカシ、キヨコの行動。(この名前の並びも少し真善美に似ている)
世界を壊してしまえるような特別な能力を持ちながら、アキラと鉄雄の暴走を治めるため、そして巻き込まれた金田を助けるために自分たちの身を投げ出す。
これらを美というのは安直なヒューマニズムであろうか。特に後者は、他者のために自分の命を捨てるという行為であり、それを美化することは過去の戦争を美化することに通じる危険性があることは承知している。しかし利他の精神自体が責められる必要はないとも思う。
AKIRAにおいては、「真」は敗北し、「善」は息絶え絶えで、最後の「美≒ヒューマニズム」だけが救いのように浮かび上がる。
(ちなみに映画版AKIRAは原作となる漫画の連載中に制作、公開されたため、結末は異なるが、大筋は共通している)
これがAKIRAで描かれる真善美の相克だ。
とはいえ、監督の大友克洋さんにはそんな意図はないだろう。
(ご本人もインタビューで「メッセージなんて大層なものはない」「曖昧なものを作ろうとしている」とおっしゃっているし。)
きっと、ぼくが見たいものを、作品の中に勝手に見ているのだろう。
でも作品の意味というのは本来多義的であり、このようにしてオーディエンスのなかで形をなすことこそが重要なのではないだろうか。
そして一方現実社会。現在の新型コロナの対策においては、科学性が当然重視されながらも、専門家会議と政治の関係も常に変化して、揺らいでいる。科学というのは常に更新されるものだから、昨日までの真が今日の嘘になりうることは否定できない。いや、否定してはいけない。科学とはそういうものだ。
政治家、実業家は経済を壊さないように、あるいは復活させるために奮闘しているだろう。(そこに善が宿っていることを祈るばかりだ。)
さて、美はどうか。そろそろ必要なことを思い出してもらえるといいのだが。
最後に残るのはそれだけかも知れない。