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「夢の涯てまでも Until the End of the World」

20代の頃に観た映画で一番好きだったのがヴィム ヴェンダース監督の「夢の涯てまでも Until the End of the World」だった。

ヴェンダースらしいロードムービーでありながら近未来SF要素もある。

舞台は1999年。
制作された1991年当時からみると近未来。今となっては結構な昔。

主人公は父が発明したカメラを使い、盲目の母に世界の映像を見せるために旅をしている。
そのカメラでは見た世界を脳と直接やりとりして保存、再生するので、母の脳に接続すると息子が見てきた世界を母が見ることが出来るのだ。

そんなことはほぼSFと思われていた当時、ぼくはこの映画を観て「この技術が実現すれば、身体が一切動かなくてもいろいろな人生を経験させる事が出来るし、仮想現実(そんな言葉はまだなかったか)と現実の区別がつかなくなるような時代が来るのかもしれない!これはすごい予言ではないか。」と衝撃を受けた。

後年の「マトリックス3部作」にもつながるようなテーマ。
ブレインマシンインターフェイス(脳と機械を接続する技術)のアイデアは当時一般的には知られていなかったはず。

この映画がぼくの中でずっと「SF(かどうかという議論はおいといて)映画最高傑作」だった。

しかしあまり世の中では評価されなかったらしい。
ヴェンダース本人も失敗作と言ったとかで長年DVD化もされず、ほぼ葬り去られてようとしていた。
もう観られないのかと残念な気持ちでいたところ、昨年暮れ頃にひょっこりとAmazon Primeに登場。

ディレクターズカット版ということ当時カットされた部分が100分追加され、なんと4時間47分(!!)の作品。
年末に観た。
長すぎる笑。

しかし久しぶりに観て、20歳そこそこだった自分が衝撃を受けたときの気持ちを思いだした。
確かに「名作」といわれる類ではのないかもしれない。
アイデアの完成度というか解像度は30年前を感じさせるが、それでも、いやだからこそ、そこにあるエネルギーは強力だった。
未完成ゆえの魅力、そういうものに惹かれていたのだ。

良く分からない要素、もしかしたら作っている本人でさえも良く分かっていない要素、謎。
そこに何か宇宙の秘密が隠れているような気がしたものだ。
(そういうところは今でも大して変わっていない)

昨今時代は進み、映画にしろ音楽にしろ、とにかく解像度も表現の精度も上がった。
計算尽くされて、深みもありながらわかりやすい感動もできて、一切無駄がなかったりする。
もちろんそれは進化していると言う意味で素晴らしい。
じゃあ、例えばこの映画のあとから追加した100分は無駄だったのかどうか。
まあ、無駄だったのだろう。
でも別に無駄だっていいじゃないか。
クリエイティビティにとっては、最終的に役に立つかどうか、無駄になるかどうか、はあまり関係ない。
現代の技術や資本に基づいて洗練を極めた作品を観るのもよいが、無駄がそのまま残っているような作品には、クリエイティビティの源泉に触れるようなちょっと危なっかしい喜びがある。
そんな青臭いことを考えた。

2014年にクリストファー ノーランの「インターステラー」を観て最高傑作は塗り替えられた。
そしてこの映画で夢のように描かれた技術はもうすぐ社会に実装される位まで来ている。

4時間47分、確保(覚悟?)できたらご覧ください。

Amzon Prime 「夢の涯てまでも Until the End of the World」